前回投稿した高山寺を後に、渓谷沿いの周山街道を南に歩いていくと、五百メートルほどで道は二股に分かれます。清滝川に沿う右の道が、西明寺と神護寺へ通じる道。ほどなくして見えてくる赤い橋を渡れば西明寺ですが、さらに南の神護寺へ先に行くことにしました。
神護寺は愛宕山系の高雄山(標高約三四二メートル)中腹にあります。長い長い石段を登り詰めた先に現れる壮大な伽藍、それらを荘厳するように境内各所を彩る鮮やかな紅葉、それらを目にしたときの高揚感と鮮烈な印象は三尾一といってもよいでしょう。まずは境内の様子から。
朱色の高雄橋を渡るとすぐに神護寺へ通じる石段の参道が見えてきます。最初からなかなかの勾配、息があがってくる頃にタイミングよくお茶屋さんが現れますが、休憩はお詣りの後にすることにして、先に進みます。
お茶屋さんの先に現れるのが、こちらの石段です。
覆い被さるほど枝葉を伸ばした紅葉はまだ緑を多く残し、清々しい印象。空を覆う枝葉の奥には楼門、その堂々とした門構えを石段下から見ると、ここまで上がってきた労が報われるような気がするのですが、あいにく現在修復中で覆いが掛けられていました。ちなみに楼門から石段を見下ろすと下の写真のような眺めです。見上げたときにはよく見えなかったオレンジが、ここからですと目にも鮮やか。オレンジ~黄色~緑のグラデーションから、果実の芳香が漂ってくるようでした。
楼門をくぐり最初に目にするのは、山寺とは思えないほど明るく開けた境内。書院、宝蔵に沿って西向きに境内奥へと進むことになりますが、和気清麻呂の霊廟前の紅葉が輝かしく、足止めを余儀なくされました。
石段を上がると鐘楼があります。
金堂へ通じる石段もご覧のような鮮やかさ。冒頭の写真は石段上から見下ろしたもので、五王堂と毘沙門堂の屋根の美しさが紅葉によって一層際立ちます。
神護寺の諸伽藍は古色蒼然たる佇まいに見えますが、応仁の乱で焼失したことから、建物のほとんどが江戸時代以降に再建されたものです。冒頭の写真に見える五王堂と毘沙門堂、現在修復中の楼門、鐘楼は元和九年(一六二三)の再建。下の金堂と金堂からさらに上がったところに建つ多宝塔は昭和十年(一九三五)の再建です。
神護寺に来たら、かわらけ投げをしないで帰ることはできません。舞台は地蔵院(上の写真)から少し下りていった場所にある展望台です。
厄除けと書かれた素焼きの小皿を眼下に広がる錦雲峡に向かって投げるのは、何とも気持ちのよいもので、空を舞う小皿に乗って、悪いものが本当に飛び去ってくれるような気がします。これまで何度か挑戦するものの思うようにいかず手前に落下することが多かったのですが、今回は三枚のうち二枚が途中からエンジンがかかったようにカーブしながら渓谷を飛行してくれました。文句なしの最長飛行、厄が落ち良いことがあると嬉しいのですが。(かわらけ投げに夢中で、渓谷の写真を取り忘れました。)
つたない写真でどこまで神護寺の魅力をお伝えできたのか心許ないのですが、長い石段を上がった先で目にする壮大な伽藍は、季節を問わず訪れる人を周囲の自然とともに包み込んでくれ、雄大な自然に身を預けたときのような開放感と安らぎを感じます。この場所に神護寺の前身とされる高雄山寺を建てたのが、境内に霊廟のある和気清麻呂でした。
和気清麻呂は称徳天皇、光仁天皇、桓武天皇に仕えた貴族で、称徳天皇に寵愛されていた道鏡が皇位に就くのを阻止したいわゆる宇佐八幡宮神託事件で知られます。これにより、称徳天皇の怒りをかって流罪となりますが、称徳天皇が崩御されると状況は好転し、桓武天皇の時代には平安遷都を推進するなど天皇の信任も篤く、高官に昇り詰めています。この清麻呂が慶俊僧都と共に、奈良時代末の光仁天皇の時代、中国の五台山にならい愛宕山に愛宕五坊と呼ばれる五つの寺を建立しています。その一つ、高雄山にあった高雄山寺が、後に神護寺になっていったと言われていますが、神護寺の由来にはもう一つ別のお寺が関係しています。称徳天皇崩御によって道鏡が左遷されたのと入れ替わるように都に戻った清麻呂は、国家安泰を願い、”宇佐八幡の神意に基づいて建てた寺”を意味する神願寺を同じ頃に開いたと言われています。その場所は河内国という説があるものの、確かなことはわかりませんが、この二つのお寺が清麻呂亡き後一つになり、現在神護寺と呼ばれるお寺になっていったということのようです。(その後訪ねた鐸比古鐸比売神社に神護寺創建の手がかりがありましたので、追記します。御祭神の鐸比古すなわち鐸石別命は和気氏の遠祖と言われています。和気氏が最初に建てた神願寺は低い土地にあったことから、後に現在の高雄に遷されたといいますので、和気清麻呂の神願寺はもしかすると石川と旧大和川に近い鐸比古鐸比売神社の周辺だった可能性があります。)
清麻呂が亡くなると高雄山寺は和気氏の菩提寺となりますが、清麻呂の子息たちが清麻呂やその姉である広虫の遺志を活かしながらさらに新しい仏教の確立を願い、高雄山寺に最澄を招き、法華経の講義が執り行われました。さらに最澄からの流れで空海も入寺し、胎蔵界・金剛界の修法伝授もなされました。神護寺に伝わる空海直筆の灌頂歴名(国宝)はそのときのものです。この頃に神願寺と高雄山寺を一つにし、神護国祚真言寺と改められました。天長元年(八二四)のことです。現在神護寺と呼んでいますが、これは正式名称である神護国祚真言寺の略称です。その意味するところは、”八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺”で、密教寺院としての性格が寺名に表れています。
神護寺は、空海の後を継いだ真済の時代に本格的な伽藍が整備されますが、平安時代末には衰退してしまいます。それを再興させたのが文覚でした。文覚は神護寺の復興を後白河法皇に強く訴えたため法皇の怒りをかって伊豆に流されました。そこで源頼朝と知遇を得、頼朝が征夷大将軍になった際は幕府側の要人としても活躍、神護寺は頼朝の力添えもあって復活を果たしました。前回投稿した高山寺で、明恵上人は幼いころ叔父にあたる上覚(文覚の弟子)のいる神護寺いたという話に触れましたが、それはまさにこの時代の話です。
文覚、上覚によって見事に再興された神護寺も、その後南北朝の動乱や応仁の乱などに巻き込まれ、堂宇を焼失するという悲劇に見舞われます。戦乱による焼失、そこからの復興というのは決して珍しいことではありませんが、創建に関わった和気清麻呂も復興に関わった文覚も、流罪から見事に復活し歴史に名を刻んでいるように、神護寺も近年一層の輝きを放っているようにも感じられます。その輝きを支えているのは、寺に伝わる数々の寺宝であり、寺を包む周囲の自然であり…。いまそこにそれらを荘厳する色とりどりの紅葉を加えたい気持ちになっています。