前回投稿した松尾寺は矢田丘陵の南東にあります。そこから西に向かって矢田丘陵を超え、平群谷を経てさらに生駒山地を越えると、そこは河内国、現在の大阪府八尾市です。生駒山地には清滝峠や暗峠などいくつもの峠があり、それら峠越えの道はそれぞれに歴史を有し興味が尽きません。すべてを自分の足で踏破してみたいと思いながら、一人で歩くのは少々不安もあり二の足を踏んでいますが、まずはできることから一歩を踏み出してみようと思っているところで、今回の心合寺山古墳はその小さな一歩といってよいでしょうか。
心合寺山古墳は松尾寺から西に九キロほど、生駒山麓の八尾市大竹にある中河内地方最大の前方後円墳です。心合寺という名前は、鎌倉時代まで近くにあった秦氏の氏寺・秦興寺に由来するようです。
日本列島に稲作が伝わり農耕文化が発展していくのに伴い、政治的な統合が見られるようになります。大和を中心にしたこの政治的広域連合はヤマト王権と呼ばれますが、その範囲は大和に留まらず瀬戸内海沿岸各地から九州北部までに及ぶ広大なものだったと考えられています。その勢力範囲を今に伝えるのが巨大な前方後円墳で、その分布は時代が下るにつれ東北地方にまで拡がりを見せています。
大和国三輪山の麓にある纏向に突如前方後円墳が出現したのは三世紀。その中で最古と考えられているのが箸墓古墳で、これは卑弥呼の墓ではないかという説もあり、私も期待をこめて賛同していますが、もしそうだとすれば邪馬台国はヤマト王権につながる初期段階の地域連合ということになります。門外漢が立ち入るのはよくないかもしれませんが、素人なりに興味が尽きることはなく、三輪山周辺はふとした折に足が向きます。それはともかく、大和盆地の南東に営まれた初期ヤマト王権の前方後円墳は、四世紀中頃になると奈良盆地の北に移動し、さらに四世紀後半には大阪平野の南部に営まれるようになります。大阪の堺市にある大仙古墳は日本列島最大の古墳で、このような巨大な墳墓はピラミッドや秦の始皇帝陵をのぞいて東アジアでは例がありません。大仙古墳を中心とする百舌鳥古墳群と、誉田御廟山古墳を中心とする古市古墳群といった大阪平野に連なる古墳群は、現代人の眼で見ても圧巻というほかありません。これら古墳群を訪ね歩く楽しみもまた格別で、五世紀の大王墓と日常の暮らしが一体化した堺や羽曳野、藤井寺といった土地の魅力にも追々触れていきたいと思っています。
今日投稿する心合寺山古墳も、百舌鳥古墳群や古市古墳群が大阪平野に築かれたのとほぼ同じ、古墳時代の中期にあたる五世紀前半のものと考えられています。
古墳時代上町台地(現在大阪城がある辺りまでの、南北およそ九キロにわたる舌のような形をした丘陵)の東には河内湖があり、旧大和川をはじめとする多くの河川は北に向かって流れ下り河内湖に注いでいたことから一帯には扇状地が拡がっていました。心合寺山古墳が築かれたのも、そうした旧大和川流域の扇状地で、早くから暮らしが営まれ集落が形成されていました。一帯には心合寺山古墳以前の四世紀の古墳もいくつかあり、楽音寺・大竹古墳群と称されていますが、心合寺山古墳はその中でも最大で、被葬者はヤマト王権に近く中河内一帯を治めていた豪族の首長とされています。
心合寺山古墳はほぼ原型を留めた状態で残っていたことから、昭和四十一年(一九六六)に国の史跡に指定され、平成五年(一九九三)から十次に及ぶ発掘調査を経て築造当時の姿に復元されました。古墳は全長約百六十メートル、高さ約十三メートル、平坦な段が三段ある三段築成という造りで、墳丘の斜面はすべて葺石で覆われ、各段の平坦な場所には三千以上の埴輪が並べられていたことがわかったそうです。
埴輪には円筒埴輪、大型円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪があり、これらが規則性をもって並べられていました。写真の埴輪はもちろん複製ですが、こうして再現されていると埴輪もまた古墳の壮観な眺めに一役買っているのがよくわかります。
出土した埴輪の中で特筆すべきは、墳丘西側の後円部と前方部の間で見つかった小屋の周りを塀と導水施設で囲った、水の祭祀場を形にした埴輪です。古墳時代、塀で囲われた小屋の中で行われた水の祭祀が何を目的としていたのか、どのような祭祀だったのか…。水の祭祀の遺跡は各地にあり、たとえば心合寺山古墳とほぼ同じ五世紀のものとされる奈良県御所市の南郷大東遺跡でも導水遺構が見つかり、水の祭祀が行われていたと考えられています。南郷の遺跡は当時大王家に肩を並べる勢力を持っていた葛城氏が拠点としていた場所。葛城氏によって水の祭祀が行われていた可能性が明らかなになりましたが、水を治める者は国を治めると言われています。囲われ秘された場所で豊かな水の恵みを祈る水の祭祀を行ったのはその土地を治める首長だったでしょうし、水に聖性を見出していた古代首長は水の祭祀を通じ自らを清め、自らの権威を高めていたかもしれません。心合寺山古墳で出土した家の埴輪は、この地でも同様の水の祭祀が行われていたことを教えてくれるもので、古代人の心の一端に触れる思いがします。
被葬者が眠っていたのは後円部です。発掘調査により、粘土に包まれた木製の棺が三つ確認されたそうで、棺は上の写真のように並んでおり、西側(写真手前)の棺は全長七、三メートルと非常に長く、仕切りを設けて武具や鏡、装飾品などの副葬品が収められていました。武具は鉄製の太刀や冑、甲冑といったもので、実際に被葬者が身につけていたものでしょう。ほぼ完全な形で残っているこれらの出土品によって、五世紀という古代との時間の隔たりが一気に縮まる感じがします。
心合山寺古墳の最上段から周りを見回すと、東には生駒山地が間近に迫り、西には大阪平野が拡がっていますが、古墳時代の海岸線は生駒山麓付近にあり、この古墳は扇状地の先端にあったようです。大和と河内の接点にあたる当地を治めた被葬者への興味がますます募りました。