久しぶりに東京の話題です。
東京ドーム西隣の文京区後楽に、水戸藩初代藩主・徳川頼房(家康の十一男)が江戸の中屋敷内(後に上屋敷になります)に造った庭園が残っています。最初の庭が出来たのは寛永六年(一六二九)。その後嫡男の光圀が手を入れて完成させました。小石川後楽園と呼ばれるこの庭は、現在国の特別史跡・特別名勝に指定され、都立庭園として開放されています。
後楽園は小石川台地の先端に位置しています。七万平方メートルの広大な敷地に神田上水の水が引き入れられ、それによって大泉水を中心にいくつもの池が造られています。訪問者はその池の周りを巡り、起伏のある園内の風景を楽しむことになりますが、その際眼に留まるのは、至るところに取り入れられている各地の縮景です。
大堰川、渡月橋、竹生島や白糸の滝は日本の名所ですが、西湖や廬山は中国のもの。光圀はこの庭造りにおいて、敬愛する明の儒学者・朱舜水に助言を求めたと言われていますから、各所に中国趣味が散見されるのはもっともなことです。
写真上は廬山を模した小廬山。蓮池からなだらかにせり上がるように、阿亀笹で覆われた小山が奥へと続いています。
こちらの円月橋は朱舜水の設計・指導で造られたものですが、戦災で焼失、昭和三八年に再建されています。
朱舜水は明の滅亡後、復興をめざすも叶わず、日本に亡命。寛文五年(一六六五)光圀に招聘され江戸に移り住み、水戸学に大きな影響を与えましたが、ここ後楽園の名も朱舜水の意見によると言われています。つまり後楽園の後楽は、「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という中国の教えに依るとのこと。
この大きな灯篭も、どことなく中国風に思えます。
園内をゆっくり散策していると、突然田圃が現れます。
この田圃は光圀が嗣子・綱条の妻に農民の苦労を教えようと造った田圃であると言われ、今でも毎年近隣小学校の児童たちが田植えをしているそうです。勧農策を推し進めた光圀の農業に対する思いが背景にある田圃と思うと、田園風景も少し違って見えてきます。
山、湖、川、田圃…。後楽園には各地の縮景ばかりか、こうした自然の普遍的な風景もが凝縮されているように感じられます。
光圀と朱舜水の思想が随所に鏤められている後楽園は、大きすぎず小さすぎず、都心での散策には最適の場所に思えました。
ちなみに水戸藩邸は明治二年(一八六九)版籍奉還により新政府に奉還されて、陸軍省所管の東京砲兵工廠となり、お屋敷部分には兵器工場が造られ、かろうじて庭園は残されました。東京砲兵工廠跡地が東京ドームと後楽園遊園地になっていることはご承知の通りです。
私が庭園を訪れた日、隣の東京ドームから大きな太鼓の音と歓声が鳴り響いていました。歴史の暗部を覆い隠すようなその騒音が、思索的な庭を汚染しているのには正直閉口しました。都心の庭園ですから、風景にビルが映り込むのはやむを得ませんが、騒音は日程次第で避けることができますので、試合のない静かな時に行くことを強くお勧めします。
園内には梅や桜、藤、花菖蒲など、季節の花が植えられいます。今の時期は桔梗や蓮華升。もみじも多いので、紅葉の時期もきれいでしょう。