前回投稿した月心寺に続き、今回も山科です。
今から八年ほど前、旧東海道を歩いた私は、往路の最終日、早朝水口を発ち、石部、草津、大津を経て、午後三時過ぎにようやく山科に入りました。山科から三条大橋まではおよそ六キロ、車ならあっという間ですし、徒歩でも寄り道せずに早足で歩けば一時間と少しの距離ですから、指呼の間といえます。山科に足を踏み入れたときは、ゴールの三条大橋が視界に入ったようでだいぶ気持ちが軽くなりましたが、あいにく足のほうがそろそろ限界に来ており、暗くなる前に三条大橋に到着したいということもあって、寄り道したくとも省略せざるを得ない場所がいくつかありました。その一つが毘沙門堂です。
毘沙門堂は旧東海道の北おそよ八百メートル、東山の山麓にある天台宗のお寺で、明治になり縮小させられたそうですが、今でもおよそ十万坪と広大な敷地を誇ります。
歴史は古く大宝年間に遡ります。創建当初はここ山科ではなく、京都御所の北、賀茂川西にあったと言われています。平治の乱や応仁の乱の戦禍で堂宇を焼失、慶長十一年(一六一一)家康は側近天海大僧正に山科の地で再興を命じ、天海亡き後は弟子の公海大僧正が再興を引き継ぎ、寛文五年(一六六五)本堂が完成、それが現在の毘沙門堂です。
公弁法親王(後西天皇の皇子)が当寺で受戒して以来、皇族が住持を務める門跡寺院となる一方で、徳川家との関わりも深かったことから、江戸時代には東海道を往来する大名一行は、必ず毘沙門堂にお詣りに立ち寄ったといいます。
東海道の取材中ここに立ち寄りたかったのはそのためで、今回ようやく念願がかなったというわけですが、思っていた以上に見所の多いお寺でしたので、寄り道の途中急いで拝観するよりも、ゆったりと時間が取れる今でよかったと思っているところですし、今行ったからこそ目に留まったのではと思うこともありました。それについては後で触れることにして、まずは境内をご覧ください。
毘沙門堂は東山の山裾に潜り込むように鎮座しています。それがよくわかるのが、この長い石段です。
この石段の先に見えるのは後西天皇から拝領した勅使門で、元禄六年(一六九三)に移築されたものです。陛下の行幸や勅旨の代参、門跡門主の入山のとき以外開かれることはありませんので、私たち一般の参拝者は毘沙門天の赤い幟がはためく石段から仁王門を経て境内へ。
仁王門をくぐるとあでやかな唐門。本殿はその奥です。本殿には最澄作と伝わる御本尊の毘沙門天像がお祀りされていますが、秘仏のため御厨子の扉は閉まっています。それに代わりお前立ちと呼ばれる毘沙門天像に手を合わせます。本堂にはこのほか不動明王や東照大権現(家康公)もお祀りされています。
本殿の裏、北東隅に立つと、新緑の楓越しに高台弁財天のお堂が見えます。
ここにお祀りされている弁財天は、元は秀吉の母が大坂城内で念じ、大坂城落城後に北政所が高台寺に遷し祀っていたものです。紅葉の時期、ここからの眺めがすばらしいそうですが、青紅葉の奥に朱がのぞく今も引けを取りません。
本殿の奥には霊殿。元禄六年(一六九三)公弁法親王によって建てられたもので、阿弥陀如来像を中心に歴代住職の位牌がお祀りされています。
霊殿の西には宸殿。これは御所にあった後西天皇の旧殿を移築したもので、狩野探幽の養子・益信による百十六面の襖絵が非常に良い状態で残っています。内部は撮影禁止のため写真はありませんが、本物は美術館でお寺にはレプリカというところが多い中、毘沙門堂の襖絵はすべてが本物です。鑑賞者の立ち位置によって絵が動いているように見える逆遠近法の効果も、間近で見ることでより実感できます。
宸殿の北には、晩翠園と名付けられた回遊式庭園が拡がっています。江戸時代初期の回遊式庭園。谷川から引いた水で滝が造られ、池には名石が配されています。
毘沙門堂が当地に造られたとき、庭の周りには樹木が生い茂って薄暗く、それが夜目に浮かぶ深い翠を思わせたため、晩翠園と名付けられたそうです。宸殿の縁側から見る現在の庭は薄暗いということはありませんが、池の奥の樹木は背後の山と同化したかのように厚く密生し、山寺の趣きを強く感じます。
大文字山へと通じる山裾から山科盆地を見下ろすように鎮座する朱色の古刹は、家康が山科の重要性を熟知していたことを静かに語り伝えてくれているようです。
ところで、本殿に「出雲寺」と書かれた扁額が架かっています。毘沙門堂とこれまで書いてきましたが、実は出雲寺が寺名で、正式には護法山安国院出雲寺といいます。今行ったからこそ目に留まったように思うことがあったと最初に書きましたが、それはこのことで、このお寺が出雲寺という名で、元は賀茂川の西の出雲郷に創建されたお寺だった、つまり古代出雲勢力の残した足跡が毘沙門堂の歴史の中に辿ることができるということに驚きつつ惹かれているところです。
毘沙門堂からは話が逸れますが、最後に賀茂川西の出雲郷のことを。
以前亀岡を通ったとき、偶然出雲大神宮を見つけお詣りに立ち寄りました。(そのことは一月のブログでも書いていますので、ご興味がありましたらご覧ください。)
丹波国の亀岡に出雲大神宮があるのは、古代丹波国が出雲国と同じ山陰道に属し、街道を通じた往来が相当盛んに行われていたからで、実際丹波国には多くの”出雲”が残されていますが、亀岡から愛宕山を越えればそこはもう山背国で、そこでも出雲の痕跡をあちらこちらで眼にすることができます。
その一つが、賀茂川の西に沿ったかつて出雲郷だった一帯で、出雲路松ノ下町、出雲路立テ本町、出雲路俵町、出雲路神楽町という地名が現在も残っています。神亀三年(七二六)の「山背國愛宕郡出雲郷計帳」(租税徴収の基本台帳のようなもの)には出雲郷で暮らしていた三百人以上の出雲氏の名前が記されていて、すでに奈良時代の前半にはかなり大きな勢力になっていたことがわかります。
出雲郷は雲上里と雲下里に分かれ、雲上里には上出雲寺が、雲下里には下出雲寺がありました。どちらも出雲氏の氏寺と言われます。それらがいつ創建されたのか、またどちらが山科の毘沙門堂の前身である出雲寺なのか、あるいは元は一つのお寺だったのか、それとも前身の出雲寺は他にあったのかなど、謎は多いのですが、上御霊神社から奈良時代前半の瓦が多数見つかっているので、出雲郷における出雲寺の創建はその頃かもしれません。ちなみにその瓦は上出雲寺のものと考えられています。それに関連しますが、四年程前には上御霊神社北西でマンション建設中に柱穴や土器などが発見されました。これは七世紀後半出雲氏全盛時代の屋敷跡ではないかとのことで、この発見により賀茂川西の出雲氏の活躍がより確かになった気がします。
出雲氏は稲作、漁労、木工、紙すきなどの技術を持ち、鉄についてもかなりの知識と技術があったので、山背国の開発にもかなり関わっていたのではないでしょうか。けれども都が平安京に移るころには、出雲氏の勢力が衰え、出雲寺も衰退し、上出雲寺のあったところには上御霊神社が、下出雲寺のところには下御霊神社が創建されました。(下御霊神社は現在京都御所南の寺町丸太町にありますが、元は相国寺の辺りにあり、二度の移転を経て現在地に落ち着いたと言われています。)
途中の経緯が定かではないのですが、同志社大学の東の毘沙門町に、毘沙門天を御本尊とする出雲寺が創建されたようで、江戸時代になり家康の命を受けた天海大僧正によって山科の地に再興された前身の寺は、この出雲寺ではないかと考えられそうです。
ちなみに上御霊神社周辺の裏道を歩いていたら、出雲寺を見つけました。かつてはもっと立派なお寺だったのでしょうが、今は塀もなく、門の奥には普通の民家、かろうじて本堂が残っているという状態です。この出雲寺は元は念仏寺といいました。明治になり、上御霊神社にお祀りされていた上出雲寺時代の観音像が、念仏寺に遷されたことから、出雲寺と名を改めたそうです。上出雲寺も下出雲寺もなくなってしまった中、観音さまのご縁で出雲寺の名が残っただけ良かったと言えるでしょうか。
栄枯盛衰、歴史の中では栄える者もいれば滅びる者もいますが、かつてその土地の開発に尽力した人たちの足跡は、地名や神社の中に残されていて、そうした名残に無性に惹かれます。命が消えても、その命を想う心が受け継がれていく限り、その命は永遠に生き続けます。大切なのは想う心。”出雲”もその一つです。
今回は取り上げませんでしたが、下鴨神社内の出雲井於神社、幸町の出雲路幸神社、賀茂川に架かる出雲路橋など、”出雲”の足跡は他にもありますので、それはまた別の機会に。