前回投稿した能勢妙見山を開いたのは能勢頼次で、祖は源(多田)満仲ということでした。その満仲をご祭神としてお祀りしているのが多田神社(兵庫県川西市)です。
源満仲は延喜十二年(九一二)の生まれで清和天皇の曾孫に当たります。はじめは都に住する武官貴族でしたが、安和の変で源高明を失脚させ昇進、藤原摂関家に仕え、摂津国、越後国、越前国、伊予国などを受領、二度にわたり国司を務めたことのある摂津国の多田盆地に居館を構え武士団を形成、一帯の開発を手がけたと言われています。
そこは多田荘と呼ばれ、満仲没後は嫡子頼光の直系子孫が受け継ぎ、その後七百年にわたり武家として発展する清和源氏の初期本拠地となりました。
ちなみに多田荘は現在の兵庫県川西市とその周辺に相当します。
多田に入った満仲は天禄元年(九七〇)居館近くに天台宗の多田院(正式には鷲尾山法華三昧寺)を建立。御家人(満仲を祖として結束した武士団)たちが天下安泰と一族の繁栄を願い寄進し発展します。長徳三年(九九七)満仲が亡くなると廟所と御影堂が建立され、以後清和源氏の霊廟とされました。ちなみに満仲は死に際し、自分の死後は多田院の霊廟で源氏一門を護り、鳴動でもって天下事変の急を知らせると遺言したと言われています。
幾度か栄枯盛衰の波はありましたが、鎌倉時代には幕府から造営を命じられた僧の忍性により再興され、幕府保護のもとに発展、室町時代には足利氏の、江戸時代には徳川家の崇敬を集め一層発展。四代将軍家綱のときに本殿や拝殿などが造営され、神社としての色を濃くし、明治の神仏分離で多田神社となり、源満仲と子の頼光・頼信、頼信の子の頼義、頼義の子の義家の五公を御祭神としてお祀りし現在に至っています。
地図を見るとわかるように、現在の多田神社は北から流れてきた猪名川が屈曲して東に向きを変える高台に位置していますが、これは当初の多田院の位置と変わりません。四方には石垣と堀が巡らされ、堅牢な城郭を思わせます。西と南を囲むように流れる猪名川も、外堀の役目を果たしたかもしれません。
境内の面積はおよそ一万六千坪。清和源氏の祖廟を伝える多田院跡ということで、境内全域が国の史跡に指定され、文化財指定された建物も多く残されています。
では早速境内へ。
石段を上がると、まずこちらの南大門が現れます。これは多田院時代の仁王門で、かつては両脇に仁王像がありましたが、神仏分離により仁王像は満願寺に移されています。
南大門を入った左に「釈迦堂址」の石碑があり、かつてここがお寺だったことをしのばせます。
南大門の先にある石鳥居をくぐると、その奥にあるのが随神門です。両脇に築地塀のある三棟造りという様式で建てられた八脚門。(国の重要文化財)
随神門の奥に、檜皮葺入母屋造りの拝殿。さらにその奥に本殿があり、どちらも国の重要文化財に指定されています。
そして本殿の裏の杜には、多田の地を開き、後多くの武将を輩出した清和源氏の祖が眠る御神廟があります。そこには足利尊氏以下、歴代足利将軍の分骨も治められているそうです。境内の中でも一番身の引き締まる場所です。
本殿を回り込むように境内を歩いていると、鬼首洗池と呼ばれる小さな池がありました。これは御祭神の一柱である源頼光(満仲の長子)が大江山の鬼退治をした際に、この池で鬼の頭領・酒呑童子の首を洗ったという伝説の池だとか。
ところで満仲は摂津国の国司をつとめた縁で、多田に入ったということですが、なぜ当地だったのでしょうか。
多田神社には次のような伝説があります。
新しい館をどこに築こうかと思い悩んだ源満仲は、摂津国一宮の住吉大社に参籠したところ、「北に向かって矢を放ち、それが落ちたところを居城とするように」という神託を受け、矢を放ちます。矢が落ちた場所に行ってみると、そこには大きな沼があり、二匹の九頭龍が棲んでいて、そのうちの一匹の眼に矢がささって暴れていました。九頭龍はもがき苦しみ堰を切って沼から抜け出しますが、力尽きてしまいます。もう一匹も下流に逃げますが、やはり死んでしまいました。大蛇と共に水が流れ出したことで、その後周辺は土地が肥え、多くの田ができました。多田という地名はそれに由来します。
「住吉大社神代記」によると、猪名川流域や豊島郡と川辺郡にまたがる山間部は住吉大社の神領でしたので、これはそこから生まれた伝説でしょう。
九頭龍を暴れ川の猪名川と捉えると、これは源満仲が猪名川の治水を手がけ多田を開拓したことを伝える伝説ということになりますが、こういうことも考えられるのではないでしょうか。
現在の川西市の北部は古代から近世まで川辺郡の大神郷でした。多田神社の北東一、五キロほどの猪名川沿い(川西市平野)に、神人の神直氏が祖神・大田々根子命をお祀りした多太神社がに鎮座しています。大神郷から大和国の大神神社を連想しますが、多太神社の御祭神が大田々根子命(大和国の三輪山の神である大物主神の子孫)ということなので、やはり古代このあたりは出雲族の土地だったのでしょう。
多太神社は多田神社と区別するため「たぶと」神社と呼ばれることもありますが、正式には「ただ」神社で、祭祀氏族の「神人」は『新選姓氏禄』(八一五)に「摂津国神別 神人 大国主命五世孫大田々根子命之後也」とあることから、多太神社のほうが多田神社よりも古いことになります。とすると、多田の地名の由来は大田々根子命(大田→多太→多田)にあるのかもしれないとも思います。
その前提で先ほどの伝説に戻ると、住吉の神のお告げで出雲族(九頭龍)の棲む当地に入って彼らを滅ぼし、多田を開いたと読むこともできそうです。
「住吉大社神代記」にも、住吉の大神が当地にいる土蜘蛛を退治し、坂の上に寝たとありますので、土着の勢力を征服したというようなことがあったのではないでしょうか。
多田神社や多太神社の北部、現在の兵庫県川西市、猪名川町、大阪府池田市にまたがる広範囲に、天平時代から開発されてきたと伝わる多田銀銅山があります。そこで産出されたのは銀や銅などで、東大寺の大仏建立の際、多田から銅が供出されたという話もありますが、これは記録に乏しいことから伝説と思ったほうがよいようです。とはいえ、大神郷が出雲族の土地だったとすると、多田銅銀山の鉱脈は彼らによってもっと早くから手をつけられていた可能性もありそうです。
『扶桑略記』に「摂津国能勢郡、初めて銅を献ず」とあるのが長暦元年(一〇三七)、源満仲が多田に入ったのが天禄元年(九七〇)ということから、満仲は多田銀銅山の開発には携わっていないとするのが歴史の考え方としては正しいのでしょうが、私は知っていたような気がしてなりません。むしろそれを目当てに多田に入り、産出した銅や銀が一族の経済基盤を支える大切な財源になったのではないかと思うのです。
能勢妙見山のところでも少し触れたように、満仲は多田に入ったとき鎮宅霊符神(妙見菩薩)をお祀りし、妙見信仰は子孫の能勢氏に代々受け継がれていきました。満仲がいつごろどこで妙見信仰に出会ったのかはわかりませんが、京の都で生まれ多田に入った後も都との縁が切れることがなかったことを思うと、平安京ではなかったのかなという気がします。
清和天皇の曾孫にあたる満仲ですから、宮中での信仰や文化は受け継いでいたでしょうし、平安京に複数の足跡を残す秦氏と接点を持つ機会はあったのではないか…と。
ちなみに、満仲は天禄年中(九七〇~九七三)に摂津国豊島郡秦下郷(現在の池田市)の呉服神社(秦下社)の修復を手がけたと言われています。また『摂陽群談』(一七〇一)には満仲の家臣が川辺郡山本村(現在の宝塚市)に秦氏の氏神である京都の松尾社を勧進したとあり、摂津国における満仲と秦氏の接点がうかがえます。
秦氏は鉱山採掘や精錬の技術も伝えたと言われています。能勢の山間部と猪名川流域に足跡を残す秦氏が多田の鉱脈を知らなかったはずはないでしょう。妙見信仰つながりで秦氏と交流する機会を持った源満仲は、豊かな鉱脈を求めて多田に入り、土着の出雲勢力を征し多田を開発したというのが、私の空想の結論です。
多田銀銅山は十数キロ四方に小規模な鉱床が数多く散在する鉱山地帯です。最盛期は十六世紀後半から十八世紀前半で、豊臣秀吉も開発に手を染め埋蔵金が眠っているという伝説も生みました。江戸時代には幕府が直轄し代官所も置かれる繁栄ぶりでしたが、やがて枯渇し一九七三年に閉山しました。
川西市や猪名川町に代官所跡や精錬所跡、間歩(鉱山の坑道)などが遺跡として保存されていますので、いずれ別の機会に取り上げたいと思っています。