土山宿を過ぎると旧東海道は野洲川を渡り土山町前野に入ります。進行方向左手、旧東海道の南に拡がる茶畑の奥にこんもりと茂る社叢と白い鳥居が見えてきます。
垂仁天皇の時代倭姫命が朝夕の調膳の殿舎を建立したとされ、南を流れる野洲川沿いで倭姫が禊ぎをしたという伝説があるその場所に鎮座しているのは、延喜式内社の甲賀郡川田神社の論社(複数ある候補の一つ)とされる瀧樹神社です。
御祭神は速秋津比古之命と速秋津比咩之命。伊勢国の瀧原宮から勧請したと伝わり、室町時代には京都の北野天満宮から菅原道真の御分霊も勧請されています。
そんな瀧樹神社で毎年五月三日にケンケト踊りが行われています。
ケンケトとは聞き慣れませんが、これは鉦のリズムに由来すると言われ、同様の名前の踊りが土山の瀧樹神社以外に、竜王町山之上の杉之木神社や東近江市蒲生岡本町の高木神社、東近江市上麻生町の旭野神社など、滋賀県南部を中心に行われています。各地域のケンケト踊り(祭)はそれぞれ固有の特徴がありますので、ひとまとめにするのは難しいのですが、いずれにも中世京の都で流行した風流踊りの影響が見られることから、全体が「近江のケンケト祭 長刀振り」として国選択無形民俗文化財に指定されています。
瀧樹神社のケンケト踊りの主役は冒頭の写真にもある八人の可愛らしい踊り子たち。七歳から十二歳までの男子で、構成は棒二人、鉦二人、かんこ二人、ささら二人の計八人。神社に到着するまでは大人に肩車をされて移動し、神社に到着するとまず馬場踊りと呼ばれる行進形の踊りが奉納されます。クジャクや雉などの羽根がついた美しいシャガマと呼ばれるかぶり物が特徴的な衣装を纏い、お囃子に合わせ片足でけんけんをするような独特のステップで踊ります。田楽にルーツがあるとも言われています。
馬場踊りが終わると、場面は一転、竹竿の上に造花の花を盛った花かごを手にした男性が入場し、見物客が一斉に群がり花かごをめちゃくちゃに壊し、花を奪い合うというすさまじい争奪戦が繰り広げられます。初めて見る人にとっては圧倒されあっけに取られるこの行事は花奪いといって、甲賀地方(現在の甲賀町付近)でよく見られます。奪いとった花を持ち帰ると、厄除けの御利益があることから、皆さん殺気だって花かごに殺到します。私も別の場所で行われた花奪いでおこぼれに預かり、花を持ち帰ったことがありますが、怪我人が出ることもあるので、ほどほどがよさそうです。それはともかく、この花奪いがケンケト踊りの間に挿入されるところが瀧樹神社のケンケト踊りの特徴のように思えます。
花奪いの間、踊り子たちは肩車された状態で見物していますが、それが終わると本殿前に進み、宮踊りを奉納します。
その後シュウシと呼ばれる酒食の宴を経て御輿の渡御などがあり、一連の神事が終わるのは夕刻ですが、ケンケト踊りという名の通りこの日のメインはなんと言っても踊り子たちによる踊りの奉納です。
色彩豊かな衣装と鳥の羽のかぶりものという出で立ちはまさに風流で、華やかさと優美さを兼ね備えています。
そういえばこの出で立ちは、先日投稿した黒滝などで行われている花笠太鼓踊りに登場する鬼の出で立ちにも通じるものがあります。甲賀の各地で行われている様々な祭は、少しずつ共通点を持ちながらも、その集落独自の祭となって受け継がれているようです。
ちなみに京都の祇園祭の前祭に登場する山鉾の一つ、四条傘鉾が巡行の際に行っている棒振り踊りは、明治に途絶えていたのですが、昭和六十三年に復活させるにあたり、瀧樹神社のケンケト踊りが参考にされたそうです。
中世に京都から伝わった風流踊りから生まれたのがケンケト踊りです。土山では今に至るまで絶えることなく伝承されてきたから、京都の祇園祭にそれを戻し伝えるということが可能になりました。こうしたところに近江国の底力を見る思いがします。