関の町の北西に標高二二二メートルの観音山があります。
もとは感応山と呼ばれていましたが、これは壬申の乱で大海人皇子が軍勢を引き連れ当地を通過したとき、夢に天帝が現れ、皇子の意気に感応した天帝がこの山に舞い降り一行を加護したという言い伝えに由来します。
また閑能山と書かれることもあったようで、これは鈴鹿の山並みを背に眺望絶佳なことに由来するとされます。
いずれにしても、元は「かんのうやま」だったのですが、それが「観音」になったのは江戸時代のようです。
それについてはこのような話が伝わっています。
平安時代の弘仁年間、関の町の南にある城山で弘法大師が十一面観音像を刻み、それを安置するお堂が造られましたが、戦国時代に焼失。難を逃れた観音像は観音山の岩窟にお祀りされていました。時代下って江戸時代の正保二年(一六四五)沙門照遍という僧が山腹に観音堂を建て、そこに十一面観音像をお祀りしたことから、その山は観音山と呼ばれるようになったとのことです。
ちなみにその十一面観音像は寛文五年(一六六五)に旧東海道沿いの観音院(写真下)に移され、旅人たちの安全を見守ってきました。
そんな謂われのある観音山は、連載の関でも触れたように、古代鈴鹿関の西城壁があったことがわかっています。現在は観音山公園として整備され、歩きやすい道になっています。
山からの眺めに期待を抱き上っていくと、思いがけないものを目にしました。
それは山のあちらこちらで刻まれた石仏です。
これらは丹波国の石工村上佐吉、通称丹波佐吉が嘉永七年(一八五四)からおよそ三年の歳月をかけて刻んだもので、西国三十三霊場の石仏群です。
頑丈な柵に囲われ写真を撮りにくいのが残念ですが、柵の隙間からのぞき見るその表情はどれも優しく、どこか気品ある石仏でした。