大阪南部、南河内地方の中でも、河内長野市の南部と千早赤阪村の山麓部一帯は最近奥河内と呼ばれています。南と言うより奥と言ったほうが、何かが秘められているような感じがしますが、実際この辺りは自然はもちろんのこと歴史の宝庫で、折に触れ訪ねたい場所です。
そんな奥河内に観心寺という真言宗の古刹があります。国宝の如意輪観世音菩薩像があるお寺といえば、ぴんとくる方も多いのではないでしょうか。
こちらがその如意輪観世音菩薩像です。(写真はお寺で購入したパンフレットから撮らせていただきました)全体にふっくらと肉付きのよいお姿で、表情は慈悲に満ち、ポーズはどこか妖艶にも感じられます。
暗闇に浮かび上がるように撮影されたその如意輪観音を、ある仏像の本で目にしたのはずいぶん前のことです。それ以来いつか実際に自分の目で拝観したいと思っていましたが、ご開帳は一年に二日のみ(四月十七、十八日)。昔は三十三年に一度のご開帳だったそうですから、それに比べたら機会はだいぶ増えましたが、タイミングを合わせるのはそう簡単ではありません。とはいえ、思い続けていれば願いは叶うもの。今年ようやくご開帳日にお詣りに行くことができました。
観心寺は飛鳥時代の後期、文武天皇の大宝元年(七〇一)に役行者が修行道場として建てた雲心寺に始まります。
それからおよそ百年後の大同三年(八〇八)、留学先の唐から帰国して間もない空海が当地を巡錫した際、唐から持ち帰った密教の修法を用いて北斗七星を勧進。弘仁六年(八一五)に再び来山し、国の安泰と衆生の厄除祈願のために如意輪観世音菩薩を刻んで本尊とし、寺名を観心寺と改めたと伝わります。
その頃空海は京都の東寺を真言宗布教の拠点とし、高野山を密教の道場とするべく奔走していました。観心寺から高野山まではおよそ四十キロ。東寺→東大寺→川原寺→観心寺→高野山という真言宗布教の道筋において観心寺は中宿として重要な位置を占めていたのです。観心寺の整備は高弟の実恵(道興大師)に託され、実恵とその弟子の真紹によって伽藍が整備されました。
このような創建いわれを持つ観心寺は、時の朝廷からの信仰を集め、官寺として繁栄したのですが、その真紹によって建てられた塔頭の中院は楠木家の菩提寺で、楠木正成はそこで八歳から十五歳までの間仏道の修行に励んだと言われています。
後醍醐天皇も観心寺を信任された一人で、鎌倉幕府を倒し建武の新政を実施した後、楠木正成を奉行として金堂造営の勅が出され完成したのが、こちらの金堂です。
和様式を基本に禅宗様式、大仏様式を取り入れた折衷様式は観心寺様式と呼ばれています。大阪府にある本堂としては、最古の国宝建造物で、ここに国宝の如意輪観世音菩薩像がお祀りされています。
楠木正成も建武新政の無事を願って三重塔建立を始めますが、足利氏の謀反により湊川(現・兵庫県神戸市)に出陣し(湊川の戦い)帰らぬ人となったので、工事は初層で中断してしまいました。現在は初層に屋根をかけ、内部に大日如来像が安置されています。建掛堂と呼ばれ国の重要文化財に指定されています。
また境内には楠木正成の首塚もあります。
観心寺はその後南朝の衰退によって荘園を失い、信長による寺領の没収などもあって厳しい時代が続きました。最盛期の鎌管時代に五十余坊あった塔頭も、江戸時代には十二坊に激減、寺領の一部を売却するなどしてなんとか凌いできたようです。
ちなみに空海がここに北斗七星を勧進したとありますが、星の信仰は密教の一分野として空海によって日本にもたらされたもので、観心寺では七星如意輪法と呼んでいます。これはあらゆる星を統括支配する北極星の使者である北斗七星を祀って天変地異を鎮めたり、長寿延命をはかるというもので、如意輪観音像がお祀りされている金堂を中心に、境内に七つの星塚を設けることで、立体の曼荼羅になっています。
こちらは七つ目の破軍星の星塚です。このような塚が起伏のある境内に配されています。
境内には他にもご紹介したいところがありますが、長くなりますのでこの辺で終わりにし、最後にこの日の一番の目的だった如意輪観音像のことを。
最近東京などの美術館で国宝仏を拝観する機会があります。彫刻としての造形をよりよく見せるため、展示にもかなり工夫がなされてはいますが、正直なところどこか違和感がぬぐえません。
今回観心寺の金堂で、御厨子の奥から光り輝く如意輪観音像を一目見た瞬間、心が打ち震えるような感覚に包まれました。それは内陣左右の板に描かれた両界曼荼羅図、黒い格天井、御厨子の前の須弥壇に置かれた四天王像…それらが一体となった堂内にこの観音様があることで、より聖性が増したからではないかと思います。造形の美しさを観ることが目的なら、美術館のほうがよく見えるでしょう。観心寺ではすぐ間近で拝観することはできませんが、空間と一体となった観音像を心で観ることができるように感じました。