東海道の紀行を連載していますが、今日は気分を変えて西国街道のことを。
西国街道は京都から下関を結ぶ街道、つまり山陽道のことです。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康がまず手がけたのが、五街道の整備でした。五街道とは東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道で、いずれも江戸と各地を結ぶ道です。山陽道は京都から西の道ということで脇街道という位置づけでしたが、西国と京都を結ぶ重要な街道であったことはいうまでもありません。
いつかこの道を歩いてみたい、歩けたらいいなと思っていますが、今回歩いたのは、そのごくごく一部、大阪北部にある箕面市萱野の西国街道です。
萱野の西国街道は、国道一七一号線と千里川の間を縫う東西の道。そこに赤穂浪士の一人で討ち入り前に切腹した萱野重実、通称三平の旧邸があります。
萱野三平は美濃の旗本大島義也の所領だった椋橋荘(現在の大阪府豊中市大島町)の代官を務めていた萱野重利の三男として、宝永三年(一六七五)萱野に生まれました。
十三歳のとき、大島出羽守の推挙により、播磨国赤穂藩主の浅野長矩に仕えますが、元禄十四年(一七〇一)江戸城松之廊下で浅野長矩が吉良義央に対して切りつけるという刃傷事件が起き、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易を命じられました。
その際赤穂へ早駕籠で第一報をもたらしたのが、早水満尭と三平でした。わずか四日半で赤穂に到着したといいますから、一日あたりおよそ百六十キロを駆け抜けたことになります。途中実家の前を通ったとき、母親の葬儀が行われていましたが、主家の一大事ということで悲しみをこらえそのまま籠を走らせたといいます。
赤穂に到着すると、三平は大石内蔵助を中心とする敵討ちの同志に加わりますが、赤穂城開城後は萱野に戻っています。萱野の実家にいる間、三平は同志と合流したい気持ちを抑えることができず、父に新しい仕事で江戸に行きたいと申し出たところ、事を察した父から、三平を推挙してくれた大島氏に迷惑がかかると諫められます。板挟みに苦しんだ三平は、主君の命日を自分の最期の日と決め、大石に遺書を残して自ら命を絶ちました。二十八歳でした。
討ち入りが決行されたのは、それから十ヶ月後の、旧暦十二月十四日でした。
上の写真は当時から現存する長屋門。
その長屋門を内側から見たのが左上の写真。ちょうど松の後ろにある部屋が右上の写真で、三平はここで切腹しました。
三平は涓泉の俳号を持つ俳人でした。
晴れゆくや 日頃心の花曇り
三平による辞世の句碑が、庭の片隅にありました。
萱野三平旧邸周辺の西国街道沿いには、旧家が数多く残り、旧道らしい風景が続いています。
なお、旧邸から南の千里川沿いに、三平のお墓があります。(コーナンの前の川沿いです)もともとこの墓地は、現在地から南西に百メートルほどの丘陵(箕面市立病院付近でしょうか?)にありましたが、宅地開発でここに移されたとのこと。
三平が萱野で切腹しなければ、赤穂浪士は四十八士になっていたかもしれません。当時の三平の気持ちを考えれば、討ち入りに加わっての切腹のほうが、心は晴れやかだったでしょう。後ろに萱野の町と西国街道が見渡せる場所に、萱野三平は眠っています。