東海道(国道一号線)を歩いていると、一瞬お城かと思うような、独特の唐破風屋根を持った白壁の建物が現れます。近づくと「ういろう」と大きな木の看板が下がっています。小田原名物ういろうの店です。
人気店らしく、次々に客が入っていきます。私もその人たちに付いて店内に入ると、混雑した店の奥に白衣を着た男性の姿があり、菓子の店にしてはどことなく雰囲気が違います。見ると、奥に何種類か薬の箱が置かれ、そこにも「ういろう」と書かれています。
お菓子のういろうだと思っていたら、ここでは薬のういろうも売られています。
客が途切れたところでどんな効能があるのか聞いてみました。
「食欲不振、胃痛、腹痛、下痢、痰、頭痛、乗り物酔いなどで、万能薬です」
二、三ミリの銀色をした小さな粒には、丁香、龍脳、麝香、人参、桂皮、甘草といった動植物由来の成分が入っています。透頂香とも言い、ここでしか買えない薬として大変人気なのだそうです。
東海道の旅の常備薬として小さな箱を買い、店の歴史を尋ねてみると、ういろうというのは薬や菓子のういろうをもたらした帰化人の名前に由来することがわかりました。
「初代は中国で千年以上の歴史を持つ公家で、外郎という役職に就いていました。元が滅びたとき日本に帰化したんですが、どの時点でか外郎を’ういろう’と読み変えて名乗るようになりました。その外郎家が中国から持ってきた家伝の薬が評判になりまして、二代目が足利義満の命で中国の実家からその薬の処方を持ち帰って作ったのが薬のういろうなんです。その後二代目は義満の招きで京都にわたって朝廷で外国使節の接待役を務めましたが、そこで振る舞った菓子が評判になって、そちらもういろうと呼ばれるようになりました」
外郎家を京都から小田原に呼んだのは北条早雲です。永正元年(一五〇四)のことで、そのとき外郎家は五代目定治の時代でした。
早雲が外郎家を小田原に招き厚遇を与えたのは、薬という当時貴重なものを確保する意味もあったでしょうが、外郎家が持っていた朝廷との結びつきを利用したいという考えもあったかもしれません。
秀吉による小田原攻めの際、八代目も小田原城に籠城しました。落城後は小田原に残れないのが筋ですが、由緒ある家柄ということで例外的に城下に留まることを許され、江戸時代には宿老として小田原の発展に尽くしたそうです。
ういろうの店舗奥に蔵があり、ういろうの歴史を展示する博物館になっています。
その中で特に興味を惹かれたのは、京都で毎年夏に行われる祇園祭の山鉾の一つ、蟷螂山との縁です。
外郎家の二代目は足利義満の招きで京都に渡り、中国伝来の薬や技術などをもって将軍や朝廷に仕えましたが、そのとき現在の蟷螂山町に屋敷を与えられました。同じ町内には、以前足利 義詮の軍と戦いで戦死した北朝方の公卿が住んでいました。二代目はその公卿に、自分より強いものに立ち向かう蟷螂の姿を重ね、祇園祭の山として蟷螂山を作ったのだそうです。
ちなみにこちらが蟷螂山。山の上に巨大な蟷螂が乗っている独特の山なので、祇園祭に行かれたことのある方ならすぐに思い浮かぶと思います。
応仁の乱で蟷螂山と外郎家の縁が途絶え、蟷螂山自体も江戸時代の大火で焼失してしまい、しばらく山がありませんでしたが、昭和五十六年(一九八一)に百十七年ぶりに再興され、六年前から外郎家現当主が蟷螂山の総代を務めていらっしゃいます。
私の旅の終着点は京都。まだまだ先だと思っていましたが、早くも小田原で京都との繋がりを目にし、箱根峠越えに弾みがつきました。